銀河鉄道の父

とても悲しかった。

役所広司菅田将暉、森七菜が、みな素晴らしかった。

おじいちゃんの死に対して、ビンタとともに「綺麗に死ね」ということが、愛情であることが衝撃的なシーンだった。

 

丈夫な身体で、誰かのために生きたいと願うこと。ろうそくでランプをつけて、物語を一字一字、大事に読み上げながら楽しむこと。自分は何者かと問い続けること。人の死を、自分の信じる心で送りたいということ。

この時代に忘れかけられているような、そういう当たり前の願いで満ちていて、そういう人だったからこそ、「アメニモマケズ」ような詩を書くことができたんだろうな。

何もかもが今よりもリアルだった時代。画面を眺めながら、人の悲しみばかりに涙している自分が少し悲しくなってしまった。

 

 

自由な発想

例えば、私は席替えが好きだった。

 

だから時々、世界規模の席替え制度があったらとっても楽しいのに、って思う。ある日突然、強制的にお隣さんが変わり、全然知らないその人と否応なしにかかわるようになり、その魅力を否応なしに知る。

私の好きな小山田壮平くんが、誰かの良さに気づかないのは、その人を深く知らないからだ、と言っていた。

学生時代の強制的な人間関係がある種もたらす、仕方のない、人との関わりは、そんなつもりはなくとも時を経て、けっこう深みをますものなのだ。

ある日突然、インド人の隣、なんて最高だ。

 

あとは、国別対抗合唱祭、とか。

世界中の子どもたちが♪一度に歌あったら、空も歌うだろう♪

って曲があるけど、実際かなりどんな感じか興味がある。

 

とりあえず、学校の行事を世界規模にすると楽しそう、ってことがわかった。

 

 

 

 

 

 

すべてがFになる

小説、すべてがFになる、を読んだ。

作者の頭の良さがよくわかる、理系ミステリー。

 

私の頭はたぶんとっても文系で、それゆえに数学とか物理とかデータ分析とかを、純粋に楽しんでいる人を見ると、少し羨ましくて魅力的に見える。視界に映っているのと本当に見ているのとでは全然違うことで、ちゃんと得られる情報を見て考えて、自分の言葉にするというプロセスを、ぬかりなくやっていると思うからである。

 

主人公の犀川先生は、だからとても魅力的だった。前提の一切をとっぱらって、自分の目と頭脳で世界を捉えるから。それを、他人を意識せずにやってのけるから。そういう人たちの率直さに、時々、とても勇気づけられることがある。

 

あとがきにあった、思考回路で人物をかき分ける、というのもおもしろいな、と思った。確かに、人の思考回路を比べてみたら、とってもおもしろいかもしれない。自分とは違うその道筋に、驚いたり必要としたりするのだろう。もっと知りたいと思って惹かれたりするのだろう。

 

研究者である作者に、興味が出てくる私であった。

 

気になった言葉のメモ

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もえの突拍子もない提案の透明感が気に入った
意味のないジョークが、最高なんだ

物理的な距離は問題ではありません。会いたいか、会いたくないかが距離を決めるのです

仕事をするために頑張ってきたんじゃないかな?今さら仕事がなくなるなんて騒いでいるのはおかしいよ

悲しいというには、自分は100年若すぎる

なぜ役に立たなくちゃいけない?役に立たないものの方が楽しいじゃないか
そもそも僕たちは、何かの役に立っていますか?

研究ってね。なにかに興味があるからできるというものじゃないんだよ。目的を見失うのが研究の心髄なんだ。

風の影

小説、風の影を読んだ。上下巻の長い小説である。スペインの作家、カルロス・ルイス・サフォンの代表作。


実は最初にスペイン語の原文を買って、表現の複雑なところが理解できないのがはがゆくて、途中で日本語で読んでしまった。

 

こんなにも奥が深くて、壮大なストーリーだとは思わなかった。そして日本では書かれえないような描写、キャラクター、言葉の表現がときどきとてつもなく味わい深かった。

 

とくに、フェルミンという人物が、とっても魅力的だった。どんなときも、独特の言い回しで、なんだかんだ明るい。

気配をまわりに溶け込もうとするのではなく、そこにいるだけで、空気全体がぱっとその人の色に染まってしまう、そういう人にやっぱり憧れてしまうな。

 

ミステリー要素あり、恋愛も歴史小説でもあり、青年の成長物語でもあり、本への愛が伝わり。スペイン語をやっていたから、この本に出会えたことが嬉しい。スペイン語で、読み直したい。

 

 

お気に入りの言葉メモ

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一瞬一瞬この目で捉えることができる間だけ光は存在する

 

心の命ずるままに、言葉が言えそうな度胸がわいた

 

何かを感じ取るのに、それを理解する必要はない

 

万年筆を息子に買ってやれない男のイメージだ

 

フィクションの世界や人の描いた夢の中に、ぼくはいつでも彼女とふたりで逃げ込むつもりでいた


忘れれば忘れるほど、よけいに賢くなったかのように感じながら

 

わたしたちはいったい何者になりさがったのかと己に問わずにはいられないだろう

 

フィクションの世界や人の描いた夢の中に、ぼくはいつでも彼女と二人で逃げ込むつもりでいた

 

忘れれば忘れるほど、よけいに賢くなったかのように感じながら

 

男友達

本、男友達を読んだ。

 

うーん、ちょっと、都合が良すぎる気がする。そんなにも自分だけを特別扱いしてくれる、都合が良い男友達というのは、実際にはそんなにいない気がする。

 

だけど、確かに男友達というのは、なんだかずるい響きだ。だって友達なら友達で、わざわざ男をつける必要はないのだから。

 

でも確かに存在もする気がする。

例えば、告白をしていただいたけど付き合うことはできなくて、今も友達である場合なんかは、どうしてだか男友達と呼ぶにふさわしいような気がする。

 

だけど、個人ではなく性別で括っている時点で、やっぱりなんかもう純友達ではないような。男友達いっぱいで羨ましいでしょ、とか、私は男友達に囲まれるようなさばさばとした性格です、とか、何かをアピールしちゃっているほんの少しの気持ちがあるような。友達、という無害な言葉にはない何かを含んじゃってるような。

 

だけど、話をするときに、単に友達っていうふわっとした情報より、男友達、とか言われたほうが具体的に状況をイメージできるという、単純により具体的な情報を提供しようというまっとうな表現のような。

 

おおう、微妙だ。難しい。

 

 

いちご同盟

本、いちご同盟を読んだ。

 

無理して生きていたって

みんな結局死んでしまうんだ

ばかやろー

 

若い頃、こんなふうにわたしたちは、

残酷なまでの澄んだ目で、世の中の真理に気づいてしまったりしたんだよな、って思う。

それをだんだん薄めて、鈍らせて、ひとの当たり前が、まるでずっと前から自分の当たり前であったような顔をする。

 

そんな稀有な十代の研ぎ澄まされた心の時代に、似たような目で世界を見つめている人に出会うことが、自分にとってばかじゃないと思える人が近くにいることが、どんなにか貴重なことだろう。

 

 

マグノリアの花たち

映画、マグノリアの花たちを見た。

最初の30分は正直、全然掴みどころがなくて、入ってゆけなくて、いったいここから面白くなるのだろうか、と疑問に思っていた。だけど中盤の突然のシリアス展開と、そこからのブラックユーモア&女たちの応酬はなかなか見応えのあるものだった。

 

昔のアメリカの田舎の、なんでもありな感じも感じ取れた。

 

むりやりつなぎとめようとする友情ではなくて、こんな風に嫌でも一緒にいて、日々の一喜一憂を共有することで強固になっていくような人と人とのつながり方が、今はやけに難しい。そんな時代になったものだな、となんだかしみじみとしてしまう。